The Voice

2025年12月 飯田 浩一 さん
(一般財団法人慶應連合三田会 理事・副会長)

会員紹介シリーズ 第5弾!

飯田浩一さん

 お忙しいところ快く取材をお受け頂きまして誠にありがとうございました。
まずは、自己紹介をお願い致します。

飯田: 1962年東京都生まれ。都立青山高校を経て慶應義塾大学に進学しました。大学卒業後は外資系企業数社で勤務の後、1998年から健康・スポーツ事業を中心とした会社を経営しています。

 慶應義塾との関り、入学と卒業年度、大学時代の所属ゼミ、サークル等をお聞かせください。

飯田: 祖父が昭和4年の法学部卒(弓術部)で、親族には叔父や従兄弟など一貫校から慶應義塾に学んだ者もおりますが、特に私は祖父の膝に乗りながら昔話を聞いて育ったので、幼少時から「慶應」という言葉はごく自然になじんでいました。
1980年商学部入学、1984年同学部卒、大学時代はSLC硬式庭球部に所属し、関東学生庭球同好会連盟の委員として、関東一円を走り回っていました。ゼミは中条潮研究会(交通経済学・航空輸送論)で、後述します航空に関する勉強を、「何の苦も無く」心から楽しんで追求しました。現在は一般財団法人慶應連合三田会において理事・副会長を拝命しています。

 俱楽部へのご入会の理由。入会年次は?

飯田: 1999年に子供の「パパ友」であった先輩から誘われて応募しました。倶楽部には20歳代のころ、別の先輩に何度か連れてきていただいたことがありましたが、その当時「ここはウェイティングリストが長くて、入会するには軽く10年は待つ必要がある」と聞いていたので、入会できるのは大変ありがたいことだと思いました。

 俱楽部での印象に残っている楽しい思い出をお聞かせください。

飯田: 入会後すぐに17学年年上のある先輩に大変贔屓にしていただき、この先輩が幼稚舎 ご出身のとても交際範囲の広い方だったので、一気に倶楽部内での知り合いが増えました。そしてその先輩が会員交流委員長をされた時に副委員長を仰せつかり、その後委員長、監事、副代表と経験させていただいた後2011年に代表となったので、倶楽部在籍26年のうち理事会には10年参加したことになります。その時その時の理事の顔ぶれで理事会の雰囲気は大きく異なりますし、それは倶楽部全体のムードとも直結していたと感じます。特に代表理事をされていた先輩方が、理事会終了後に「ホンネ」をこぼしながら、別人のようにリラックスして大きな笑い声で寛がれる時間が楽しくて大好きでした。

 代表時代に1番ご苦労したことは?

飯田: 代表任期開始直前の東日本大震災は来場者が激減し、野外でのイベントにはガイガーカウンターを持参したことを記憶しています。またそれを追いかけるように、帝国ホテルから賃料の大幅引き上げを通告され、その交渉(5年スライド制の要請、倶楽部ルーム縮小の打診の拒否など)には時間も体力も使いましたが、引き続き帝国ホテルを賃借できたのはほっとしました。

 ご趣味は?

飯田: 自社の営業科目であるテニスやフィットネスは定期的に行っていますが、友人知人の誰もが「飯田と言えば飛行機」と表現すると思います。幼少時からパイロットを目指し、高校時代は本気で航空大学校を目指していました。でも高校から大学時代は航空業界大不況でパイロットの採用は一切無く、その後景気回復で採用が再開されると、年齢制限ギリギリで挑戦しましたが、競争率3,000倍の難関を突破できず花散りました。それでも航空の夢は諦めきれず、1996年のスカイマーク発足の時は設立発起人のひとりとなり、2013年には三田評論で思いを語り、2017年に55歳にして悲願のパイロット免許取得に至りました。仕事などで忙しい時に空を眺め、飛行機を追う事は至福のひと時です。

 座右の銘を教えてください。

飯田: 「気品の泉源たれ」

 最後に、リレー方式の次号1月月報のThe Voice登場者の方のご紹介をお願い致します。

飯田: 加藤純士さんをご指名させて頂きます。

 取材にご協力誠にありがとうございました。

過去のインタビュー

会員登録した方だけが参加できる、
限定コンテンツを多数ご用意しております。